2010年2月1日
大阪希望館事務局次長 沖野充彦
2009年6月8日大阪市北区に、大阪希望館(住まいをなくした人のための再出発支援センター)を開設することができた。支援拠点となる「相談センター」を貸しビルの1室に置き、その近くに支援用居室として賃貸アパートの空き部屋を借り上げる方式をとっている。出発時5部屋(4部屋は居室、1部屋は共用部分)定員4人で開始したが、現在8部屋定員8人になり、少しずつ広げることができつつある。
7月11日には運営団体として「大阪希望館運営協議会」を設立することができ、次の人事構成をとって運営している。
(名誉館長)難波 利三(作家・小説「大阪希望館」作者)
(代表幹事)山田 保夫(大阪労働者福祉協議会会長)
松浦 吾郎(カトリック大阪大司教区補佐司教)
(事務局長)坂本 眞一(連合大阪副事務局長)
(事務局次長)渡辺 順一(ソウル・イン釜ヶ崎、金光教羽曳野教会長)
沖野 充彦(NPO釜ヶ崎支援機構事務局長)
設立現在の宗教者の団体参加は、カトリック大阪大司教区社会活動センター・シナピス、金光教平和活動センター・大阪センター、新日本宗教団体連合会(立正佼成会などで構成)大阪事務所となっている。労働団体と宗教団体、ホームレス支援団体が、共同でひとつの支援事業を担う全国でも珍しいスタイルといえる。運営資金は、全額を市民からの寄付によっている。
住まいをなくした人の再出発を支援する活動を通して、大阪のまちを大きなセーフティネットにする市民の共同事業を促進し、誰もこぼれ落とさない社会の形成をはかる。
直接には、2009年1月以降、特に派遣や非正規の仕事を失って路上に投げ出された若年者からの相談が増えたことにあった。昨年に比べて、OSAKAチャレンジネット(住居喪失不安定就労者支援センター)で約3~4倍(月40~50人)、NPO釜ヶ崎支援機構で約5~7倍(月約20人)になっていた。
「派遣切り」だったために、失業手当や国の就職安定資金融資制度を活用して雇用促進住宅での生活に移っていける人もいたが、他方には、日雇派遣やアルバイトで生活していたために、あるいは自分で借りた部屋で暮らしていたために、失業手当や安定資金の対象にならなかった人も多くいた。また、派遣・非正規では何とか仕事にありつけてきたが、いったん仕事を失ったあとでは次の就労にすぐにつながるには難しい、軽度でも知的障がいや発達障がい・精神疾患や依存症を抱える若年者からの相談も多くなっていた。
安定資金を使うことができない人たちは、ホームレス対策用の自立支援センターに入所するか生活保護を受けるかしか方法がなく、自立支援センターも入所希望者の増加により、入るのに3~4週間待たねばならず、その間臨時的な宿泊などを提供する大阪市の施設である生活ケアセンターにも入れない状態が続いていた。
たいていの相談者は、なけなしの持ち金をはたいて何とかネットカフェなどに寝泊まりしながら、ハローワークに通ったり求人情報誌を見て仕事を探したが見つけることができなかった。結局野宿にならざるをえなくなって、大阪市の北区や難波周辺で夜を明かしていた。最後にどうしようもなくなってOSAKAチャレンジネットやNPO釜ヶ崎支援機構、西成労働福祉センターなどに相談に来ていた。
相談者は釜ヶ崎にたどり着く前に疲れきっている。釜ヶ崎には支援するための社会資源はそれなりにあるが、この事態は社会全体の問題であり、あいりん(釜ヶ崎)対策にのみ流し込んではいけない。また就職安定資金融資制度など制度が整備されていっても、そこからこぼれ落ちてくる人たちは後を絶たない。
この事態を何とかしなければならない。「派遣村」や一時的な相談会はそれなりに意義はあるが、たとえ生活保護制度に押し上げたとしても、その後のフォローがなければ、当人の「やる気」のみに頼って就労努力を求めてもなかなか結実しない。野宿生活になる前に受け止めて、継続的に支援できる恒常的な社会資源が、小さくてもモデル的に必要だ。
そうした焦りともいえる切迫感が、「釜ヶ崎の外での支援資源の設置」へと私を向かわせた。
2009年1月末頃だったと思うが、「行政の動きを待っていては間に合わないから、民間の資金で北区に支援施設を作りましょう」と、OSAKAチャレンジネット事業を一緒におこなってきた大阪市地域労働者福祉協議会事務局長で連合大阪の副事務局長である坂本さんに、なかば無謀ともいえる提案を持っていった。そこから市民ネットワークとしての大阪希望館設立に向けた動きが始まった。実は現在の希望館の支援ネットワークの広がりは、私にとっては予想外だった。連合大阪は自らの事業として希望館の設立と運営を機関決定してくれ、各加盟労組内でのカンパ集めと同時に、街頭宣伝で「希望館設立」を掲げて市民のカンパも募ってくれた。カトリックの松浦司教や金光教の渡辺さんは、所属の教団だけでなく他の宗教者や宗教団体に積極的にネットワークを広げてくれた。
さらに予想外だったのは、当初「公的セーフティネットにつながるまでの緊急的な支援施設と、つながった後のアフターフォロー」という「線」での支援しか頭になかった私のイメージを超えて、「大阪のまちを大きなセーフティネットに」をかかげた市民のセーフティネットワーク運動へと、つまり「面」や「層」での支援ネットワークへと向かっていったことだ。
どんなに支援施設を拡充しても、受け止めて支援できる対象者は一部にとどまり、それ以外の人たちには支援の手が届かない。より広く受け止めて出口も整備する市民ネットワーク作りが必要だということ、そして行政に施策の実施を要求するだけでなく、自らセーフティネットモデルを作り、そこに施策を引き寄せていく市民運動が必要だからである。
設立準備に加わってくれた自治労大阪府本部の山口勝己さんからそうしたイメージと「大阪希望館」の名称が提案され、さらには戦後の被災者の支援施設であった大阪市立梅田厚生館を描いた小説「大阪希望館」の作者である直木賞作家の難波利三さんまでが、全面的に協力してくれることになった。
取り組みはまだ小さくても、入所している支援対象者を取り巻くだけでなく、住まいや仕事を失って苦しむ人たちをさまざまな場で支援し、支援資源の拡大をはかる希望館運動のネットワークは、急速に広がり深まっていっている。
大阪希望館の設立に向けてネットワークが急速に広がったのには、それなりの土台があったからだと私は考えている。
一つは労働団体に、積極的に取り組む土台があったからだ。
連合大阪など労働団体が、派遣切りなど派遣・非正規労働者の雇用の問題に取り組むのは、当然と言えば当然といってしまうこともできるだろうが、住まいや就労支援の問題に乗り出すには、やはり長年の取り組みの土台があったからだと思う。ひとつは、「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」制定に向けた積極的な取り組みが、90年代半ばからおこなわれてきたからだ。もうひとつは昨年5月から、大阪労働者福祉協議会で、厚生労働省の「ネットカフェ生活者」の相談窓口である「住居喪失不安定就労者支援センター(OSAKAチャレンジネット)」を運営して、実際に住まいも仕事も失った若者たちの相談にあたってきたからだ。
しかも、国の受託事業では泊る所などの支援費用は組み込まれていないため、独自に簡易宿泊所と契約して、ネットカフェに泊まる金さえ尽きてしまった相談者に、臨時に寝場所の提供をおこなってきていた。相談に来たその日から野宿におちいらざるをえないほど切迫した相談者を前にして、どうすれば支援していくことができるのか、苦闘してきたからだといえる。
宗教者の取り組みにも、長い野宿生活者や釜ヶ崎での支援の取り組みの歴史があった。カトリックなどキリスト教関係者は、釜ヶ崎での労働者支援や各地の野宿者支援の取り組みの一つの中心をなしているし、金光教の関係者などの野宿者や釜ヶ崎支援の取り組みも続けられてきた。釜ヶ崎支援機構では、法人設立以来の地道な取り組みが土台にあった。
まず2001年に福祉相談部門を設立して以降、2000人を超える野宿生活・高齢労働者の生活保護申請を支援するとともに、生活保護制度に乗せるだけではなく、再野宿や孤独死にならないために総合的な生活支援をおこなって、居宅生活の継続を支える取り組みを続けてきた。それぞれに応じた保護の方法や支援の方法・使うべき社会資源を申請前から検討して支援方針を立て、申請後は必要に応じて金銭管理や服薬管理・受診付添や容態・状態の変化への対応・ケース検討会議などを通して、アフターフォローしていくことでである。
2005年にはお仕事支援部を開設して就職支援をはじめた。しかし、釜ヶ崎には就職活動の前提となる寝場所や生活支援の場が、あいりんシェルターか生活ケアセンター以外にないため、生活保護申請のための求職活動支援や、自立支援センター入所支援に傾かざるをえない状態が続いた。
2007年には「若年不安定就労不安定住居者聞取り調査」と「厚生労働省・住居喪失不安定就労者実態調査」の2つの調査を実施して、2008年からOSAKAチャレンジネットと連携した「ネットカフェ生活者」支援事業を、市内対策部を設置して開始した。
しかし、やはり行政施策としては寝場所や生活支援は実行されず、「相談」のみ事業委託だったため、NPO独自で釜ヶ崎の内外に簡宿転用アパート3室、ワンルームマンション3室、空きアパート6室を有償・無償で借り上げて、支援居室を設置した。短期的就労支援の場合は簡宿転用、長期的な就労支援は空きアパート、生活保護申請のために経過観察が必要な場合などはワンルームと、支援の方向や当人の状態に応じて使用し、福祉相談部門と南分室(お仕事支援部と市内対策部)を支援拠点にしていった。さらに方向が定まるまで、あるいは自立支援センターに入所できるまでの間には臨時的な就労訓練作業を提供して、就労リズムの維持と生活支援をおこなう、釜ヶ崎での支援システムを形づくっていった。
こうしたそれぞれの分野での野宿者支援や「ネットカフェ生活者」支援の地道な取り組みがおこなわれてきたからこそ、事態の深刻化・新たなホームレス層の増加に対応した新しいネットワーク支援の取り組みが、急速に広がることができたと考えている。
大阪希望館は、自立支援センターや生活保護施設など公的社会資源とならぶ民間社会資源のひとつでもあるし、公的社会資源にはない柔軟さをもった市民ネットワークでもある。
現在、相談者の窓口はOSAKAチャレンジネットとし、そこから、臨時の宿泊提供は大阪労働者福祉協議会、若年で就労に近く
大阪希望館運動とは、要約すれば「人を支えるための市民ネットワークの形成」である。それぞれがおこなっている取り組みを土台にして政策要求、制度要求や問題の可視化を共同で行うスタイルの運動でもなく、また各分野の専門家が集まって共同で相談会をおこない、公的制度に乗せるまでを支援するスタイルの取り組みでもない。制度からこぼれ落とされそうになっている人たちを受け止めて、その人たちが社会の中で生き続けていくことができるよう支えていくための、共同した取り組みであり、そうした社会の形成運動だといえる。その意味では、対立するものではないが、反貧困運動とも異なるし、派遣村運動とも異なると私は考えている。補正予算によって国のセーフティネットが拡充されたことを成果として、派遣村実行委員会が解散した同じ6月に、大阪希望館が開設されたことに、それぞれの役割が象徴されているのではないかと私は感じている。
また大阪希望館は、行政の制度や社会資源もネットワークの中に組み入れ、官がすべきことはしっかりとやってもらう、民ができることは官のみに求めず民の責任を果たそうというものでもある。官の対策が先か民の取り組みが先かと言っていられるほど、現実は甘くないからだ。「あたらしい公をつくる」取り組みと言ってもよい。
制度や社会資源の活用の点では、就職・就労も生活保護受給も、社会の中で生きていくための資源・手段のひとつと考えており、まず就職ありきでも、まず生活保護受給ありきでもない。そのために、失業手当をもらえる人や就職安定資金融資が使える人にはそれを受給するための支援、それが無理な人には公共職業訓練と訓練・生活支援給付を受けるための支援、就職活動の支援や自立支援センター入所の支援、専門医療受診が必要な人にはそのための支援、そして生活保護を土台にすることが適している人には申請とその後の生活の支援をおこなっている。あらかじめどれかひとつの手段を前提にして支援の方法を決めるのではなく、様々な手段や資源を使い組み合わせることで、それぞれに応じた道を支援していくことができるよう、相談者と話し合いながら選択して進めている。その意味では、生活保護を土台にした上で就職などに結びつけていくアフターフォローとも異なるし、就職活動のために寝食を提供する自立支援センターなどとも異なる。
8月末現在で、希望館への入所者は、20歳代後半~40歳代前半の5名となっている。6月に開設して以降の入所者総数は6名にすぎないが、それは希望館も、チャレンジネットの相談で、自立支援センター入所や生活保護施設入所、釜ヶ崎支援機構での生活保護支援などに誘導する中のひとつの資源だからである。また、希望館で受け入れることができる支援居室もまだまだ少ないため、現在は「原則として住まいを失ったのが初めてで、しかも生活保護や自立支援センターなどの公的支援を受けたことがない人」に、入所基準をしぼらざるを得ないからでもある。
8月末までに、希望館に関係しては15名の相談を受け、そのうち6名を希望館で受け入れて支援し、他の9名については釜ヶ崎支援機構で支援したり、他の生活保護施設や自立支援センターでの支援を依頼した。希望館への入所を希望していたが、リハビリや治療を要するためチャレンジネットの相談で生活保護施設への入所に切り替わった例、チャレンジネットからは希望館入所を依頼されたが、知的障がいが疑われ、しかも療育手帳も持っていないため、生活保護施設での支援が適していると判断して施設に入所を依頼した例、自立支援センター退所後すぐだったり、依存症がうかがわれるため釜ヶ崎支援機構で生活保護での支援に方針を切り替えた例などがある。
そのうち、入所した人2名の事例を紹介する。
(1)Aさんは40歳代前半・男性。2009年春に派遣元から派遣先の直接雇用(有期契約)に切り替わったが、派遣元の寮に住んでいたために契約費用10数万円を求められた。その派遣会社では入社してから1年半ほどで、一度に契約費用を支払えるほどの持ち金がなかったために、やむなく旧派遣元の寮を退寮しなければならなくなってしまった。住むところを失ったので、旧派遣先(当時の雇用先)も辞めざるをえなくなり、公園で2週間ほど野宿した後チャレンジネットに相談にいった。1週間ほど釜ヶ崎の簡易宿泊所で宿泊を支援した後、希望館の開設と同時に入所してもらった。
雇用先の離職票上は「自己都合」退職だったが、ハローワークの指示によって公共職業訓練を受ければ、雇用保険の「自己都合退職による給付制限3カ月」が解除される。そのため、希望館の支援居室に住民登録を設定して失業手当受給手続きや国民健康保険手続をおこない、6月下旬から失業手当を受給しながら3カ月の職業訓練を受けることにした。失業手当が出たため、7月末にアパートを設定して希望館を退所し、現在職業訓練を受けながら、継続したかかわりを保っている。
相談に来た当時は疲れ切っていた感じだった。雇用保険の受給や職業訓練の受講が決まってきたころから明るくなり始め、慣れてくるとよくしゃべる人なつこい感じになっていった。だがやはり訓練終了後にすんなりと就職先が決まるのだろうかと、大きな不安を抱いている。
(2)Bさんは30歳代前半・男性。6月下旬に釜ヶ崎支援機構に携帯電話のメールから相談があった。「施設のことを知りたいのですが」というだけのメールで、それが希望館のことをさしているのかどうかはわからなかったが、とりあえず窮迫していることだけは理解できた。すぐにメールを返信して、困っているならもう一度連絡をくれるように釜ヶ崎支援機構の電話番号、所在地を書いて送った。折り返し電話はあったが、相談に来る交通費がないという。
派遣切りにあって2009年1月から大阪府北部の雇用促進住宅に入居して、雇用保険の失業手当を受給していた。しかし、6月はじめに最後の失業手当をもらったが、就職先が見つからずに持ち金も尽きて困窮しており、雇用促進住宅の家賃も滞納していた。
やむなく当機構の担当者が、車で雇用促進住宅まで迎えに行き、希望館に入所してもらった。その後、退去の手続きを取ったうえで荷物を片づけて、引き払うお手伝いをした。あまり外交的な性格ではなく、気弱な感じで、自分をアピールして勝ち取っていくタイプには見えなかった。
7月初旬からは府営住吉公園(指定管理者制度で、民間企業と釜ヶ崎支援機構がJVをつくって管理運営している)での就労体験事業(週3日で、公園内の清掃作業など)に参加しながら、その他の日には専門の職業カウンセリングを設定して受けてもらったり、ハローワークに通って就職活動をおこなってもらったりしてきた。
性格的なことや製造関係の職歴しかないことを考えて、製造関係にしぼった求職活動をしていたが、何件も履歴書を出したり面接を受けたりして、そのたびに不採用だった。8月末にようやくプラスチック成型工場に、入社時はアルバイト待遇であるが正社員登用もある条件で仕事が決まり、9月から通っている。
Aさんの雇い止めは、本来であれば派遣から直接雇用への転換であって安定雇用化に表向きは見えるが、実は旧派遣元からも旧派遣先・当時の雇用主からもはじき出されてしまっている。仕事を失えば住まいも失い、住まいを失えば仕事も失う、両方が確保されなければ、生きていくことができない現実が見える。Aさんは、7月11日におこなった大阪希望館設立記念イベントで「希望館がなければ犯罪を起こしていたかもしれない」と、野宿に追いやられたときの絶望感を表現していた。
Bさんの事例は、就職安定資金融資制度や雇用促進住宅への入居、あるいは生活保護受給での住居・生活費の提供があっても、その後の相談やカウンセリングなどのフォローアップが機能しなければ、引きこもってしまって、自力で次に進んでいくことが難しい人たちも多くいることを示している。現在のように有効求人倍率が0.5さえ割り込んで就職先を見つけることが難しい雇用情勢では、高齢や障がいや依存症などの就職困難要因を特に抱えていなくても、誰かが相談にのりながら激励したりしかったり、就労へのモチベーションを維持するための臨時的な就労や訓練作業、また職業カウンセリングなどに参加してもらったりして、当人も周りもよほどのエネルギーをかけなければ、次の出口へ進んでいくことが難しい。
希望館の開設に向けた準備の段階では、ホームレス対策の自立支援センターなどに入るのに数週間を要し、その間を支える資源がないために、短期の入所支援を中心に据えようと計画していた。しかし、開設した6月頃からは、生活保護の受給や自立支援センターの入所などもスムーズに進むようになっていたため、ある程度自力で就労に向けてやっていけそうな人は自立支援センターへの入所を勧め、専門治療などは要しないが、就労に向けても密な支援が必要だと考えられる人を希望館で受け入れて、中期的なスパンで支援するスタイルをとるようにしてきた。
その結果でもあるが、現在入所当初に参加してもらっている就労意欲継続のための訓練作業(淀川河川敷での週3日の清掃作業)と次のステップである公共職業訓練(給付金を申請できる)、専門家による職業カウンセリング、住民登録設定による国民健康保険への加入が、大きな支援ツールになっている。
目標は希望館を出てアパートを設定できるようになること、仕事を見つけて続け、生活と住まいを確保し続けられるようにすることに置いている。だが、やはりほとんど出口が見えない状態で試行錯誤せざるを得ない現実がある。たとえ出口にたどりついても、待っているのはまた不安定でどうなってしまうのかわからないワーキングプア状態での仕事と生活であるのは、ほぼまちがいない。現状を抜けるための葛藤と試行錯誤、抜けてもけっして明るいとはいえない未来を生き続けていかなければならない苦難。住まいも仕事も失った20代・30代の若者たちは、こののち何十年も何を希望にして生き抜いていかなければならないのだろうか。それを思うと気が遠くなってしまう。
現在の雇用や社会保障のシステムでは、たとえ景気が回復して雇用者数が増えたり失業者数が統計上減ったとしても、再びワーキングプア状態が拡大するだけで終わってしまう。そこからすぐにホームレス状態に陥ってしまう人たちも後を絶たない状態は続いてしまう。しかし困窮状態を生活保護費の支給で支え続けていくだけでは、若年者にとっては何十年も希望のない給付を受けることとして、人生が終わってしまいはしないか。
今を生き抜くことで将来に希望を持つことができる社会、それをつくっていくためのひとつの力に、大阪希望館でのささやかな当事者支援と市民ネットワークの形成が、なっていくことができればと願っている。
※この論文は「ホームレスと社会」vol.1(明石書店・2009年10月30日発行)に掲載されたものです。